傷心帰省

機内で前座席にくっついている画面にフライトマップが映し出されていた。
地図上で東京からだんだんと離れていくその飛行機の3D映像を眺めながら、私は逃げ出しているのだと思った。

手を繋いでいるカップルを見ると、その場から消えてしまいたくなる。"リア充爆発しろ"的妬みの感情ではなくて、ついこないだまでそれは、私の手の中にもあった幸せなのだということが堪らなくツラい。
消えたい、と口に出す代わりにマスク越しでもわかるくらいに大きく息を吐いた。近頃ろくに吸えていないのに吐くことばかりの空気。ああ、消えてしまいたい、そう思いながら消えられない。

自分の家なのにそうじゃない。自分が住んでいる街なのにそうじゃない。どこもかしこも思い出ばかりで、俯いたまま早足で歩く。絶対に知り合いとすれ違うことなんてない東京という場所で、僅かな期待を捨てられない。
今日、今この瞬間も、彼はあの優しい声でその人の名前を呼ぶのかもしれない。そっと手を繋ぐのかもしれない。1日の終わりになんでもない話をするのかもしれない。1番私が聞いていたかったその話を。

私が失ったものをすべて手にした人がいる。奪った人がいる。私ほど本気で求めたわけでもないのに。それがどうしてなのか教えてほしい。私が一体、なにをしたというのだろう。これほどの仕打ちを受けるほどのなにをしてしまったんだろう。
逃れられるはずもないのに、空気の薄いその街から、物理的に私は逃げだした。

実家に着いて、食卓に並べられた母の料理を見ると食欲が湧いた。それだけでも帰ってきた価値があるかもしれない。
帰る場所があることはありがたい。同時に、昔からなんでも出来るようになるのが人より遅い子どもだった私が、30になってもなお、まともに恋愛の1つも出来ないのは申し訳なかった。こんなことで心配をかけ続けることが本当に情けない。

「もしまた戻りたいって言われても、もう戻ったらダメよ。そういう男は結婚しても同じこと繰り返す。ふらふらふらふらして、傷つくだけ」と、また言われた。
「戻りたいなんて……言われないよ」私はそう失笑混じりに答えた。
母にそこまで言わせるような男の人を選ぶこと自体、間違っているのだろうと頭で思う。
母の意見は、私の人生においては概ね正しかった。それが120%私のためであるということに加えて、私という人間の価値観の、恐らく核の部分を作り上げたのが彼女だからだ。
それでもどこかで、そこまで言うほど悪い人じゃないんだよと口を挟みたくなる自分がいる。心はひたむきにまだ、自分をひどく裏切った人を想っている。本当に馬鹿みたいだ。
「お風呂入ってくる」と私は席を立った。

それなりに本気で相手と向き合ってきたのなら、失恋して傷つかないことなんてきっとない。でも、できるならもうこんな理由で傷つくのは嫌だな。

素直でいることは、悪いことじゃないと思っていた。私には本当に1ミリも悪意なんてなくて、ただ純粋に好きだっただけで。それを知って欲しかっただけ。
彼のことが何よりも大切で、だからどんなことがあっても彼との時間や彼自身を、守っていきたい思っていた。
でも、ありのままの自分を受け入れてほしいなんて、やっぱりただのわがままなんだろう。

少しずつ眠れるようになって、ご飯も食べられるようになって、笑えるようになって、日に日に「回復」していく。自分でもそれがわかる。

私はいつか、彼がいなくても平気になってしまうんだと漠然と思う。
そうしたら、これだけの「好き」は一体どこにいくんだろう。
嫌だな。平気になんてなりたくない。平気なわけない。彼さえいてくれればそれでよかった。
ああ、でもたぶん、平気になってしまうとしたら私が強くないからだね。
自分を想ってくれない人を、自分ではない他の誰かを想う人を、想いつづけられるほど、私は強くない。
こんなに好きなのに、誰にも絶対に負けないと言いきれるのに、そんなことはなんの武器にもならない。むしろそれが私の弱さだ。

もう傷つきたくないって気持ちが無意識に、少しずつ忘れていく方を選んでいる。
忘れたくないと叫びながら、心が逃げていく。

その気持ちがどんなに本物で、強い強いものだったとしても、いつか消えて無くなるんだったら人を好きになるってなんなんだろう。
結局何もかも失うのなら、最初から何もない方がましじゃないか。